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「気になる用語」 2010年11月15日更新

最近 ・・というふうに思います(或いは考えます)という言い回しをよく耳にする。これが気になるのは 多くの場合その前段で本人の意見や考え方が述べられておりこのフレーズを使う必要が全くないにもかかわらず しばしばこのフレーズがあとに付け加えられるからである。なぜそうする必要があるのだろうか。

思うにこのフレーズがないとそれまで述べてきた意見や考えがそのまま自分のものとして相手に伝わるのだが この場合これに対する異論なり反論なりを自分一人で受け止めなくてはならないことになる。無論自信があれば堂々と受ければよいのだが それほど自信がない時にはこのフレーズを使うことによりあたかも第三者の意見を引用しているような形態を最後に作って直接的責任から逃れる意識が働いているのではなかろうか。おそらくこのフレーズを使う人はなかば無意識にやっているのだろうと思うが この潜在意識なしには理由が見当たらないのである

これも普通一般の会話のなかでの話しであればとくにとりたてて気にする必要もないのだが 国会答弁において政治家がこれを使うとなると問題は別である。実際にそうした例を何回か耳にしているが これを聞く度にこのような責任逃れフレーズを使う議員に歳費を支給することこそが税金の無駄遣いではないかと思うのである。議員の皆さんは用語に充分のご注意をお払いください。皆が使っているからというのでは許されないのです。

用語といえば最近勝ち組負け組という言葉が日常使われているが これにも筆者は違和感を覚える。なぜ勝者敗者ではないのだろうか。組という以上は自分をグループの一員と位置づけているわけだが なぜグループの一員でなくてはならないのだろうか。個人であればその思想や行動のよってもたらす帰結を自分で背負うことになるのだが グループの一員であればグループの影に隠れることができる。つまり責任逃れの志向が伺えるのである。責任を逃れながら勝ち組であればその恩恵に浴することができ負け組をさげすむことにより優越感を覚えることもできる。負け組も自分ひとりではないということで慰められるという構図だろうか。

これもリスクの分散だと理解すれば今風の考え方だといえるのかもしれないが
間違いなく昔の武士道の精神からすれば卑怯者なのである。日本人が武士道の精神を忘れてしまったのなら この世界に稀なる精神文化をぜひもう一度思い出して自らの身を律することの価値を考えてほしいものである。

(一本杉)


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