2011.01.18 のニュース
あの建内氏の訃報に接して
昭和末期から平成にかけ、石油業界のトップとして一時代を築き、いまなお記憶が鮮明な建内氏が亡くなった。全石連総会に初めて出席した石連会長であり、ガソリン増税反対運動では全石連執行部とともに街頭に立つなど、販売業界との協調路線を定着させたことも記憶される。
建内氏が日石に入社したのは、太平洋戦争が始まった1941年。勤労畑を歩み、80年の社長就任当時、「建内WHO」とささやかれたほど、販売業界で同氏を知る人は少なかったが、全石連総会で、孔子が編纂したとされる詩経から「兄弟牆(かき)に鬩(せめ)げども外その務(あなど)りを禦(ふせ)ぐ」を引き、精販一致して強い業界体質を作る重要さを訴えた。飾り気がなく、豪放な性格の建内氏が、販売業界に受け入れられた瞬間だった。
81年に石油審議会は強靭な石油産業の構築に向けて、元売集約、リーディングカンパニーの出現、過剰設備の廃棄などを要請する報告書「今後の石油産業のあり方」を取りまとめ、業界再生の処方箋を描いたが、業界の動きは鈍かった。石連会長に就任したばかりの建内氏は三菱石油との業務提携に踏み切り、精製元売集約への流れを確実なものとした。
建内氏を語るうえで忘れられないのは特石法だろう。消費地精製主義が安定供給の基盤とし、「日本の価格体系の特殊性は政策的な配慮によるもので、安いガソリンが輸入されれば灯油などの価格が上昇する。石油危機の際、価格変動幅の大きい製品輸入に頼っていたのでは危険だ」と反対を表明するが、輸入者に備蓄や改質能力などの要件を付すことを条件に、同法の施行(86年)を決断した。そして、10年間の暫定期間を経て同法は廃止、建内氏が日石会長を退任する年と重なった。
建内氏が日石社長に就任した80年にイ・イ戦争が勃発、その後、ホルムズ海峡で同社のタンカーが被弾するなど、中東情勢が緊張した時代であり、安定した原油調達のため中東諸国との関係強化に努めた。また、原油開発にも意欲を示し、日韓大陸棚や米国での事業に乗り出したこともあった。
建内氏の野球好きは有名だが、都市対抗の有力チームの野球部長を18年間も務め、また、日石社長として創立百周年を迎えるなど、同氏の業界人生は楽しかったのだと思う。勲一等瑞宝章も受けた。