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「知育と徳育は並存すべし」 2004年04月21日更新

日本人が教育熱心であることは 世界的に知られている。 教育ママのことを英語ではJewish Mother と言うが ユダヤ人も教育熱心なことで有名である。 当然のことながら これは民族の発展のために なにが必要かをわきまえた行動であり 賞賛されるべきことである。にもかかわらず 日本の場合なにかが欠けているように思えてならない。 

今日本で教育と言う時は 知育を意味するのであって 徳育はそのなかに含まれていないのではないか。 知育に関しては 最近レベルが落ちていると言われるが それでも世界の中では高水準であることに変わりはないだろう。 ほとんど無名に近い人が ノーベル賞を受賞するのを見ていると 日本の全体水準の高さを感じるのである。

一方で 徳育となると まるで教えるのが悪いことのように言われている。 これは不思議なことだが 敗戦後それまでのすべてを否定する風潮が流れ 戦時中に盛んだった道徳教育も否定されたことに始まっているのだろう。 それまでの道徳教育が間違っていたなら 新しい道徳教育を導入すべきであったと思うが これがなされていない。 学校が徳育を行わないので 徳育は各家庭に依存するしかないのが現状
である。そしてすべての家庭がこれを確実に行うと考えるのは現実的ではない。

知と徳のアンバランスは危険である。 知を車にたとえれば 徳は運転者である。
どんな素晴らしい車に乗っていても 運転者が道路交通法を守らなければ その車は凶器と化す。 強力な車ほど 強力な凶器となる。 これを証明する具体例は 最近いくらでもある。 外務省や旧大蔵省の高級官僚が犯した 信じられないような低俗なスキャンダルは 徳の欠如としか思えない。 あの残虐な常識では考えられない殺人 事件を引き起こしたオーム真理教の幹部は 若い医者や弁護士であった。 明らかにバランスが崩れている。

ユダヤ人でも おそらく教育は知育を意味し 徳育は含まれていないだろう。 しかし彼らの場合 宗教が徳育を行っているのではないか。 欧米など殆どの先進国でも夫々の宗教が同様の役割を果たしていると考えられる。 ところが 日本人は敗戦を機に それまで国民の間に深く浸透していた 神道や仏教や儒教とも決別した。 無宗教と自称して恥じなくなった。 戦時中の苦しみから解放されて 自由になったと喜んだ。 そして これが将来どういう結果を招くか 考えようともしなかった。

そろそろ 戦後の日本人は反省すべき時機に来ていると思われる。 知は危険に通じることもあるが 徳は常に平穏である。 車を持った無法運転者より 車を持たない優良運転者の方が 世の中の安全に貢献する。 もし車を持つなら 道路交通法を遵守するべきだろう。 知育も当然大切だが すべての国民が知的に優秀である必要はない。 しかし 徳は是非ともすべての国民に身に付けてほしいと思う。 なぜなら平穏な社会はこうした人々により支えられると思うからだ。 学校での徳育を 是非真剣に検討すべきだろう。

(一本杉)

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