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「経済性は金科玉条か」 2007年07月02日更新

バブル華やかなりしころには経済性などという言葉を口にするひとはいなかった。とにかく買えば儲かるというわけで、株にせよ土地にせよ買っては儲け、売っては儲けていた。しかしこのような単純な金儲けが長続きするはずがない。やがてバブルは崩壊し経済界のあらゆる局面で破綻が生じた。不沈艦と思われていた日本を代表する大手銀行ですら、国の支援なしには持続不可能な事態となった。

ここで浮び上ってきたのが経済性あるいは経済合理性ということばである。バブルに浮かれている間に組織内に無駄がはびこっていたが、それでも充分に儲かっていたのでそのまま放置されてきた。ところがバブルの崩壊をむかえて目を内部に向けてみたら、そこには無駄が山積していたのである。これでは生き残れないと、企業は軒並み組織のスリム化や人員の整理あるいは金融負担の軽減などによりコストの削減に走った。つまり経済性を重視するようになったわけで小泉内閣の改革路線もこの一環である。この努力により日本全体のコストが下がり、需要の回復に伴って企業の収益力も大幅な上昇をみせるにいたった。そこで経済性の追求こそが金科玉条のように認識されるようになった。

しかし経済性の追求はそれによる弊害も伴っていることを忘れてはいけない。刑罰を例にとれば、無期懲役刑など長期にわたるものはすべて死刑にすれば囚人を拘束する費用が省けるわけで国民の経済的負担の軽減につながる。しかしこうした経済性を主張することができないのは明らかである。これは例としては必ずしも相応しくないかもしれないが、経済性を否定しなくてはならないことが世の中にはあると説明するには分り易いともいえよう。

航空機の整備不良による軽度の事故の頻発や鉄道の駅における人身事故の多発も人件費の削減と無関係とはおもえない。またトラックやバスの事故を見てもコスト削減のしわ寄せで運転手が過重な労働を強いられているのが原因のようだ。これらはいずれも人命に係わるものであり、コスト軽減の代償が人命だとすれば明らかに妥当性を欠いた経済性追及だといえよう。一般の工場でも保守管理コストを切り下げたせいで発生した事故がけっこう目につく。

特に原子力発電所におけるトラブルがしばしば報道されるが、もしこれが管理費用削減を原因とするものだとすれば、ことは重大である。なぜなら普通の火力発電所とくらべて原子力発電所における事故は、そのもたらす被害の大きさがけたちがいでありなんとしても防がねばならないものだからだ。したがって原子力発電所では管理にはコスト意識を持ち込まず安全こそを重視して運営するべきであろう。原子力発電は発電原価がもっとも安いというのが定説になっているが、廃棄物処理の費用がこのコスト計算には殆んど織り込まれていないし、また安全管理の費用が他の発電所より格段に高くつくこともコスト計算に含まれていないはずである。原子力発電が本当に一番有利なのか、より精密なコスト計算を行って詳細を発表するべきであろう。曖昧な経済性優先の考え方は危険である。

(一本杉)

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