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「教育に関して」 2006年10月19日更新

阿部内閣が教育改革に取り組むらしい。教育現場の現状には筆者も疑問に思うことが多いので、その改善には賛成である。どうせ改革に取り組むのであればこれを機にこれまでの教育の総括を全面的に行い、何がよく何が悪かったのかを明確にするのはもちろんだが、その前にあるべき教育とはどんなものなのかを真剣に検討してほしい。

常づね感じているのだが、日本の教育は中学から大学にいたるまで試験の難しい学校に入れるようになるためにあるように思える。つまり受験対策教育であり、○×方式を前提に如何に○を多く正解につけるかを学んでいるようである。理由はともあれ正解に○を多くつけた者が試験を通るのであり、そのためのテクニックを教えるのが教育のようである。

世間一般の通念もこれを後押ししている。誰がどこの学校に入学したか、あるいは誰がどこの学校をでたかということには関心があるが、何をやるためにどこの学校に入ったのか、何をやってどこの学校を出たのかに関してはまったく話題にもならないようだ。入学が唯一最大の目標となると、入学と同時に目標が消えてしまい、後には何も残らないということになる。こう考えれば入学を最大目標とする愚が自ずと分るはずなのだが。

人間社会では真に多種多様な能力が混ざり合って構成されている。個々人の異なった能力が互いに作用しあって社会の力が生まれるのであり、どんなに優れた能力であっても同種の能力が数多く集って社会の力を生むということはない。

これは例えば4番バッターばかりを集めたり、あるいは抜群のピッチャーだけを集めても野球は勝てないのと同じ理屈である。だから受験能力に優れた金太郎飴みたいな学生をいくら増やしたところで、これが社会の力を生むということはないのだ。

こう考えると教育がどうあるべきかも見えてくる。まず金太郎飴の生産を止めることだ。そして小学校においては、一人一人の生徒が将来社会の一員となったときにどんな役割が自分に向いているかを自覚できるように、様々な経験を積み重ねる手助けをするのがよいだろう。これを礎石として中学と高校では、自分なりに選んだ方向に向かっての準備を整え、大学でこの仕上げをするのがもっとも望ましいと思う。無論勉強が良くできるに越したことはないが、これもあくまで数ある能力の中の一つであり、様々な能力を多様な人達が追求する社会こそが力を生みだすのだという根本理念を国民が共有することがもっとも大切だと言いたい。

(一本杉)

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